ピアノに魅了された子供時代
幼いころより、自分の弾くピアノとプロの方が弾くCDなどを「何故こんなにも音が違うのか」と聴きくらべ、
「アップライトで弾くピアノとグランドピアノの音色の違い」や周りからは上手になったねと言われても「プロの方の様な弾き方ができていない・・・」
そんな、もどかしさを常に感じながら、ピアノの音の素晴らしさに憧れ、色々なピアニストが弾く曲を探求し、ピアノの素晴らしい音に魅了されてきました。
中学生時代、転校を何度か経験し、ある学校では「1番上手!」と褒められ、学校行事での校歌を伴奏する係に選ばれたり、合唱コンクールのピアニストに選ばれたりしましたが、ピアノ経験者の多い学校に行った時には先輩達との実力の差を感じ、舞台に立つことができない悔しい思いも沢山してきました。
そして高校生の時、あまりに悔しくて泣いた挫折の思い出があります。
楽しかったピアノからの挫折
当時の私は高校生合唱団のピアニストとして活躍していました。
毎週土日は朝から晩まで練習し続けてクタクタになって帰り、そこから学校の勉強をして・・・という、毎日を過ごし、高校3年間はピアノと勉強一色の生活。
今、目の前の1人ひとりの生徒さんと、それでも大好きなピアノと過ごす日々は充実の毎日でした。
そして、三年生最後の発表会の出演。場所は府中の森芸術劇場という大舞台。
ピアニストは大勢の歌う人達を1人で支える責任重大な枠割なので、大舞台に向けて緊張の毎日を過ごし、寝ても覚めても練習に練習を重ねて、いよいよ本番を迎えるという時。
合唱団の代表者から、一言。
「あなたは、本番は出られない。もっと上手な人にピアニストをお願いしたから、もう明日から来なくていい。」
呆気なく、退場を言い渡されたのです。
本番一週間まえの、突然の告知でした。
青春をかけて3年間頑張ってきたピアノ。
周りから上手と言われて、生き生きと楽しく頑張ってきたピアノ。
転校ばかりで寂しかった気持ちにいつも寄り添ってくれたピアノ。
皆んなに喜んでもらいたい一心で、そんな気持ちに勇気をくれた大好きな大切なピアノ。
転校ばかりで勉強もついていけなかったから、私にはこれしかなかった。
青春をかけて、ピアニストとして誰よりも努力して鍛錬してきたつもりだった。
しかし、私には皆んなの歌声を引っ張っていけるだけの力は無いのだ。と一瞬で厳しい現実を知らされた悲痛な経験をしたのです。
悲しくて心に穴があいて、もう全てを投げ出したくなりました。
勉強もダメ、ピアノもダメ・・・この先どうしたらいいの・・・?
アメリカ留学で得た感動の経験
そして、高校卒業後、一般事務の仕事に就職するため、地元の短大へ。
心にはぽっかりと穴が空いたままでしたが
この短大2年間の中、一年をアメリカで生活することに。
そこから驚くべき人生が開いていきます。
ピアノにお別れをつげ、無念のうちに始まった、短大受験への挑戦は、この悔しさを晴らすように躍起になり、毎日自分を追い込んでいきました。
ピアノを断ち、退路も断ち、受験者上位10名のみ合格できる、アメリカ留学制度のある学校を選び、その一校のみ受験。
寝ても覚めても受験勉強の冬を乗り越え、見事合格。めでたくロサンゼルスに留学を果たしたのでした。
人間、その気になればできるものなのだ。
という成功体験を掴み、これが今後の人生を開く鍵となりました。
留学先では、様々な出会いがあり、文化の違いに目眩を覚えながら、慣れない英語と格闘しながらも学内でできた友人とのびのびと青春を謳歌しました。
でも、心はぽっかりと穴を開けたまま・・・
しかし、ある時、サンフランシスコのホームステイ先のご夫妻が、自己紹介のときに「趣味はピアノです」なんて言ってたものだからホームパーティーを開くのでピアノを弾いて欲しいと言われ、断るに断れず承諾。高校時代のトラウマから凄く緊張して震えながら本番を迎えました。
ホームパーティーと言ってもアメリカサイズですからだだっ広い部屋に大きなピアノ、そこを何十人も取り囲み、、ポツンと佇む私を見つめている。
震えながら、弾いた曲はあの、
合唱の本番の舞台で弾けなかった、
もう2度と弾くもんか!と
誓っていた合唱曲の伴奏・・・(笑)
それしか記憶に残ってなかったから、しょうがない。
そして10分ほどの曲を弾ききり、皆にお礼のお辞儀をして顔をあげたとき、私の目には涙が滲んでいましたが、その先に見えたのは
ブラボー!
と、盛大な拍手をくれる人達。
こんな震えながら弾く私なんかのために、立ち上がり拍手をくれる人達・・・
俄かに信じられなかった。
え?みんなの知らない日本の合唱曲の、しかも伴奏ですよ??
でも、震えながら涙が止まらない私を、ハグしながら一緒に泣いてくれた異国の友達。
「ビューティフル!感動した!!」
「日本の曲素晴らしい!!」
そんな沢山の声に包まれたのでした。
音楽は国境を超える!を地でいくような貴重な経験をしたのでした。
それから、心に響く忘れられない話もありました。
現地の大学の学長が若い私達留学生のために話してくれた、人生の大切なこと。
皆んなは、勇気を出して日本を飛び出して、
若いのに遠い異国で奮闘している。
それは素晴らしいが、では、それは何のためか?
若い時に大変な思いをして生きる道を経験したからこそ、
人生の荒波を悠々と乗り越えられる人になるのです。
心を鍛えて、苦しむ人を助けられる人になるのです。
さあこれから何をするかです。
自信がない過去に、小さな自分の心に囚われていたら、
鎖に繋がれたサーカスの象と同じ。
遠慮しないで、できることから、精一杯やっていくのです。
今までと考え方をかえて、自分の本当の使命を見つけていくんです。
そんな話だった。
衝撃だった。
今のままの私では、調教のために繋がれた象のように、できるはずのことを、もうできないんだと思い込み、誰かに言われたことをこなすだけの人になってしまうかも。
自分の好きなこと、やりたいことに挑戦せずに、時間が経ち、人生終わってしまいそう・・・
そんな想いを感じつつ、しかし、それでも、更に凄い体験が待ち受けていることも知らずに自信が持てないまま、悩みもがく時間が過ぎていきました。
帰国後に待ち受けていた学長と教授の言葉
アメリカから帰国後、待っていたことは、学祭と就活。
しばらく海外に滞在したからといって、自信を取り戻せたわけでもなく、進路の方向性が定まったわけでもなかった。
ただ。ちょっと鍛えられた心にやっと芽生えた思い。
スケールの大きい自然や生活環境の中で得た様々な出会い、沢山の励ましを胸に刻み、これから、自分のできる限りのことをして、試しにダメもとで目の前にあるチャンスに全力で取り組もう!ということ。
学祭の準備期間には全く音楽とは関係ない学校にも関わらず、学生達が盛り上がる音楽行事が沢山あった。
とにかく眼にする音楽関係のことには、次々頭を突っ込んでいった。
まず、大学と短大を合わせた1000人程の学生が一堂に会して歌う、学祭のためのテーマソングの作曲。
これは、我ながらキャッチーなメロディーを思いつき大人気に。
オーケストラと、ジャズバンド、軽音バンドが編曲に加えられ、なかなかカッコいい曲に仕上がっていき、学生達が歌いながら踊れるように振り付けもつけられ、学祭本番は大講堂を揺らした。
そして、舞台で披露する、合唱部やオペラの伴奏、、マイナスイメージを払拭するため、真剣に練習を重ねた。
次に、軽音バンドのキーボード、、初めてポップスの研究をしてコード奏をマスター。
それから、短大生用の愛唱歌の作成にも挑戦。
授業と行事準備の合間には、大学内の教育部の学生が練習するための、小さなピアノスタジオをかりて、作曲や練習のために入り浸った。
年末の第九を歌う機会には学部生にまざって練習。
などなど・・・
勿論一流企業の就職も目指しながら、音楽の楽しさを思い出す作業に熱中した一年をすごしていました。
そんなある日、舞台でピアノを弾いていた私の演奏を聞いていた学長と教授陣の先生方に後日、呼び出されました。
「折角、企業の即戦力になるべく訓練していくべき時に、君は音楽?学部生に交ざって行事のために、楽しくピアノ弾いてるだけだ。
そんなことでいいのか?」
そんなことをいわれるのではないだろうか?という声を想像しながら、
「私、今は自分のために必要なことなのでやってます!」
「私にはこれがないと次にいけない!」
と自分の悩みを正直に話すべきか、いい言い訳はないか・・・と考えながら、応接室へ向かいました。
部屋の真ん中のソファに並ぶ学長と男性教授の向かいの席に促され面談がはじまりました。
君は僕の授業を受けてくれているね。
ハーバード時代の優秀な教え子と同じ名前だから、印象に残ってね。
ピアノが好きなのか。
その70代位にみえる男性教授は、アメリカから帰国後、我が学内で英文学を教えてくれていて、その教授の翻訳の授業が好きだったのですが、私が行事でピアノを弾く度に、学生達と一緒に参加し、演奏を聴いてくれていたらしかった。
君は、、学祭の曲を作ったんだね。
感性が素晴らしいね。根性もありそうだな。
これから先、何があっても、大丈夫だね。
そんなことを急に呟かれて面食らっていると、学長からは、
「君を推薦したいところがある。」
と、ある会社を紹介されたのです。
ここの試験を受けてみなさい。
そこに勤めながら、音楽は極めていけばいい。
働きながら、学んでいくんだ。好きな音楽をするにも
社会経験は大切だ。ここでの経験を誇りにしていきなさい。
いつか、君の音楽で自分も人も幸せにできるね。
教授陣は、
私の悩みに寄り添って、
進路を考えてくださっていたのです。
私の両親も一番に願っていた、有名企業への就職。
有り難いことに就活にあくせくすることなく
就職を果たし、そこから、結婚まで10年間勤めることに。
ちなみに、後に知ったことなのですが、
大丈夫だね。と励ましてくれた英文学の教授は、
かつてハーバード大学で教鞭をとり、
あの雅子妃殿下のゼミの教授だったというから驚きでした。
仕事と先生の両立と原因不明の病
そんな凄い出会いと励ましの言葉を胸に刻み、就職するまでに今出来ることをやろう!と、ピアノ講師の資格をとり、同時に近所のピアノを習いたいという子供達に教え始めました。
習うより慣れろで、今から先生をやってみよう!と。
そして、働きながらピアノも極めていこうと決意したのです。
その頃はまだ自宅には、アップライトの古いピアノがあるだけでした。
いつか、グランドピアノを大きな舞台で弾ける実力を
つけることを目標に、働きながら週末はボランティアで音楽を教えたのです。
もうピアノはやめようとした落胆の一途から、2年で大転換することができた。
やはりピアノから離れて暮らすことは自分が分離してしまうみたいで、つい、本能に従い行動と結果を起こしてしまったのだろうと思います。
しかし、職場は思いのほか忙しく、残業も多く夜中に帰ることもしばしば。
ピアノがなかなか弾けなくなりストレスマックスになってしまい、入社7年目のある日、私は40度の発熱で救急車で運ばれてしまったのです。
検査入院しても原因がわからず、熱が下がると退院。上がると入院。
そんな勿体ない時間を繰り返していまい、人生がパッタリと途絶えてしまいそうでした。
そんな中、あの「音楽で幸せに」という言葉が心の支えになり、
「もう、死ぬ前に、悔いなく生きよう!」
そう決めて、実家から離れ、音楽マンションに引越し、グランドピアノを買うことを決めました。
そう決めると、ここでも築いてきた経験と人との縁、諦めない忍耐力が発揮され、そうなると運も味方に。
人の縁が支えてくれたピアノ教師生活
マンションからグランドピアノまで探してくれ、独り立ちの背中を押して下さった、当時のピアノの師匠。Y先生。
凄い先生でした。高名なパリ高等音楽院教授から伝授された演奏法を引き継ぎ、その全てを10年にわたり惜しみなく与えていただいた。
この先生に出会えたことも奇跡です。思いの強さにより引き寄せられた出会いだったと感じます。
そして、願い通りの部屋と大きなグランドピアノを手に入れ、一人暮らしを始めて2年目のある日結婚を進めてくれた上司。
病気がちの私の幸せを願ってくれていました。
会社もそんな私が無事に寿退社するまで辞めさせることなく、守って下さいました。
本当に沢山の色々な人達に、助けられ守られ、今現在にいたるまでピアノ教師生活を続けられていることを痛感しています。
上司に紹介された主人は、大きなグランドピアノを新居に構え、リビングを防音スタジオにすることを許してくれましたし、今でも毎日、自宅教室に来てくれる子供達を笑顔で迎え、励ましてくれる優しい人です。
結婚後は、2人の出産と子育てを経験し、自分の心身は更に強く鍛えられ、喜びも大変さも味わえる全てに感謝する日々です。
今度は自分が沢山の人を音楽で幸せにする番
出会えた生徒さんの成長を見守れることも、全く我が子と同じように、嬉しく、愛しくかけがえのない経験であり感謝にたえません。
沢山の人を音楽で幸せにする。
この思いを支えに進み
早、28年が過ぎようとしています。
そして益々、これから、もっと自分の力の限りを尽くして、
使命のままに生きて生き抜きたいと、日々熱意を燃やしているのです。
これからも、沢山の音楽を愛する人に出会いたい。
そしてピアノの素晴らしさ、演奏することの喜び、聴いていただくことのありがたさ。感動の瞬間を沢山の方々と味わい、これから先もずっとずっと学び続けていきたい。学ぶ喜びを伝えたい。
この幸せを分かちあいながら、使命のままに生きていきたいと心から願っています。

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